――そういえば。
大石の言動がちょっとおかしかった日があった。あれは大石の得意科目、英語の小テストがうちのクラスで返却された次の日だったっけ、と不二は思い出し、妙に納得するのだった。
■菊丸サバイバル■
その日は、古典の小テストの返却日。点数の悪かった生徒には追加課題が出された。
見事その余計なご褒美を貰ってしまった菊丸は満点近い不二に泣きついて、何とか教えてもらいながら課題を消化したのだが、すっかり時刻は遅くなってしまって。
結局不二は菊丸家で一緒に夕食をご馳走になる事になったのだ。
「やったやった今夜は焼き肉〜。美味しいおにくが食べたいな〜っ♪っと。あ、不二そこ座って」
テーブルの上のホットプレートを眺めて菊丸が嬉しそうに言いながら、不二に席をすすめた。
「でもごちそうになっちゃうの何だか悪いなあ」
「いーっていーって!水くさいなあ。ってゆーかオレんちの食卓戦場だから、遠慮してたら喰いっぱぐれるから覚悟して」
ほい、と取り皿と箸を手渡しながら菊丸は真剣な顔つきで不二の肩を叩いた。
「できるだけオレもフォローするけど、頑張って喰ってね」
大きなテーブルにずらりと五人兄弟が並ぶのは圧巻だ。不二の家と同じくらいの広さのダイニングが随分と狭く感じる。町内会旅行で祖父母夫婦が不在にも関わらずこのにぎやかさというのは、父と弟が別居中の不二には少し羨ましい。
「はい、お待たへ〜」
お茶碗とお茶を運んできた菊丸母の言葉に、不二は思わず耳を疑った。
不二にとってはすっかりお馴染みの単語だが、電話をかけた時に丁寧に対応してくれる優しそうな女性の声で聞くとまた違った破壊力がある。
何とか礼を言いそびれる事だけは免れた不二に、さらに襲いかかる壊れまくった日本語。
「お父さんちょっち遅くなるみたいだから先食べちゃいましょ」
「いったらっきまーす!」
――日本語が変なのは英二だけだと思っていたのに。まさか、この家ではこれが標準言語なの?
恐ろしい懸念を抱く不二に、英二がちょいちょいと脇をつついた。
「不二ぃ、ぼーとしてないで共同戦線張るよん!焼けた奴からどんどん取るッ!」
「え?あ、うん」
とはいえ、育ちの良い不二に他人様の家でそんな強突張りな真似ができるワケがなく。
「しょーがにゃいなあ。不二の分までオレ頑張らなくっちゃ。まずは肉ッ」
菊丸は腕まくりするとホットプレートに素早く腕を伸ばした。
「そうは問屋が卸しこんにゃく!」
「あっ、にーちゃんずっこい!それオレが焼いてたのに」
「油断大敵大胆不敵〜カボチャもーらいっ」
「うわ、ねーちゃん、取り皿から取るのは卑怯っしょー!」
「にゃに言ってんの。アンタ前私のプリン食べちゃったでしょ。食べ物の恨みは怖いのよん」
「ざーまあみそ汁。オレまで疑われたんだからな、英二」
「ひでー、かわいい弟集中攻撃するかにゃー普通」
――そういえば大石が英二の家で夕食ごちそうになった時、すごく賑やかだったとか言ってたっけ。
不二はぼんやりそんな事を思い出した。
賑やかっていうか、何ていうか。
そんなレベルの問題じゃない気がする。
――猫屋敷……。
大変失礼な事を思わず考えてしまう不二だった。しかし目の前に広がる光景が、餌箱にたかって壮絶なバトルを繰り広げている猫軍団に見えてしまうのも事実で。
『そんなバナナ』とか『もうわけワカメ』とか、不二の世代の言語中枢では到底日本語だと理解できないような妙ちくりんな単語が『にゃー』だの『みゃー』だのという発音と共に飛び交っているという現実がその認識に拍車をかける。
「不二君、いつも弟がお世話になってるわね。ほい、遠慮せずに食べてね」
不二の隣に座っている大人っぽい――でもどこか猫っぽいお姉さんが肉やら野菜やらを不二の皿に入れてくれた。とりあえず争奪戦がハードすぎるホットプレート上の食料は諦め、礼を言って素直にもらったものをつつく事にする。
「あーッ!不二そんな簡単に戦線離脱すんなよ!だいたいねーちゃんも不二ばっかりズルイ!オレにはめぐんでくんないの?!」
「だってねえ、エージったらやたらでっかくなっちゃって可愛くにゃいんだもの。私のお下がりもう着れないし」
「この年になって女物の服着せようとするねーちゃんが変なの!不二、気をつけないとねーちゃんに女装させられるぞ」
それはちょっと嫌かもしれない。と思ったが波風を立てるのも嫌なので不二は曖昧に笑ってごまかした。
「もー怒った!オレも本気でいくかんね!」
数回目の前で狙ったモノを横取りされて頭にきたらしく、菊丸がしゅるんしゅるんと箸を回し出す。
「ちょーっと、エージ!お箸まわすのやめてけれ〜。お行儀悪いにゃー!」
「にーちゃん勝負ッ!」
「うんにゃそうはイカの天ぷらよん。にーちゃんに勝とうなんざちゃんちゃらおかしくって臍で茶が沸く分福茶釜〜」
「あ、かーさんタレ取ってくんろ〜」
「ほいほい。さ、野菜も入れましょ。じゃんじゃんじゃがいもサツマイモ〜♪」
――ああ。菊丸がいっぱいいる。いやここは菊丸一家だからみんな菊丸でそれは当然なんだけど何て言うか。
ここは本当に現代日本語圏なの?
不二が異国に迷い込んだ気になっても無理はない。もはやあまりにアレンジが凄すぎる言語が飛び交い、元の会話が理解できなくなってくる。
とりあえず無理矢理台詞については気にしない事にして、ご飯を口に運ぶ事にのみ神経を集中させる不二に、無慈悲なとどめの一撃。
「たらいま〜今帰ったよ〜ん」
玄関から聞こえてきたのは軽妙な語調と不釣り合いな低く渋い声。その犯罪的なまでのギャップに、不二は思わず気が遠くなった。
――翌日。青春学園昇降口。
「不二、おはよう」
「ああ、大石、おはろー」
「………」
「………」
「…昨日英二の家行ったんだったな。まあ、何だ…伝染るよな。あれは」
「うん。感染力MAXだにゃー」
不二は口を押さえながら困ったような笑顔で応えた。
end